Monthly Archives: November 2012

取り付ける。取り憑かれる。

二月から歯の矯正治療を受け始めた。中学時代にも受けたことがあるが、そのときに姿勢が悪かった。この二年で、あんまり多い運動量で背中と首の筋肉に筋肉がついてきて、姿勢が良くなった。姿勢によって、下顎の位置が変わるので、噛み合せが逆になって、それを治すためにまた治療を受けることにした。

今日は針金を調整しに矯正医の診断室に行った時に、先生が帽子型矯正装置(ヘッドギア)を提案した。これは頭の後ろから巻いて、下あごの歯に当てて、下の歯を後ろへと引っ張るようなもので、使うことで歯が綺麗に並んで来るが、やっぱり顔の周りに取り付けるので、かなり目立つものだ。

先生は説明した。「ただ、これは一日平均八時間を付けないと、結果が出ないのですよ。面白いことで、八時間を下回ると、例えば七時間半とかで効果が見られません。」

「そうですか。でも、私は一日平均六時間しか寝ないのですよ。最近記録も取っているし。」

「寝ている時じゃなくてもいいですよ。例えば読書の時とか、あんまり動いていない時とか。週末で時間を稼いでいるかたもいます。平均が八時間になればいいです。」とさらに説明した。

「まあ、通勤時間を入れれば、一日八時間にはなるかな。」

この時に先生が大爆笑「おかしい!」

「ちょっと変人に思われるかもしれないけど。」

「日本の子供は、海外みたいに、学校で付けていないよ。あんまり誰もみたことがないと思いますよ。通勤は、車?」

「いや、電車。」

私は電車に乗っている自分の回りの人のドン引きの反応を想像して、先生と一緒に大笑いした。

私が聞いた。「後ろのストラップは色を選べる?」

「いいえ、選べないんですよ。いや、でも、こんなに積極的にヘッドギアを着けようとしているヤンさんは医者として嬉しいですよ。始めてですよ。だいたい皆さん嫌がっています。」

「何だか、子供の時に周りにそういうのを付けていた人もいたのだからかもしれないけど、そんなに抵抗を感じない。」

これで思い出したのは、私が育った環境で、人は目立つことをあんまり嫌がらなかった。(むしろ好んでいるかもしれない。)一方、日本では皆が目立つことをできるだけ避けている傾向がある。私は今もあんまり気にしていないけど、場合によっては目立つことというのは雰囲気を相手に合わせる努力をしていないという失礼がことになるとも理解してきた。これで、以前より気にしているだろうけど、何かで茶化されて、それで恥に取り憑かれることはおそらくない。

道場での物理と心理の境

道場とは道の場であり、ひとつの場所で自分の人生の歩み方が反映されている。たとえば、仕事のやり方、人との付き合い方、自分の恐怖、誇り、全部反映されている。こうして、自分をより見つめることができる。合気道の技の中の動きには体の運び、バランスの鍛錬させ合いという物理の世界もあれば、自分の気持ちを確かめて、相手と気を感じてそれを合わせるという心理的な世界もある。この物理と心理の世界の境には面白い気づきが潜んでいる。

たとえば、私の技がうまくいかなないときに、それがよく自分の姿勢が悪いのが原因だと気づく。姿勢がなぜ悪いと自分に問いかけると、相手を投げようとする気持ちがあると発見することがある。その気持ちによって私の軸がぶれているということに気づく。そしたら、ためしに投げようとする気持ちを取り除いたら、技がうまくいく。こうして、物理を通して心理的な発見があり、心理状態を買えて、物理の世界も変わってくる。

道場の中で訓練して、道場の外に生かす。

道場の外で生かせなかったら、単なる有酸素運動になってしまう。

Can’t Teach

Learning Through Failure

In Aikido, I’ve experimented with telling people that their center of balance is unstable, and then observed them perform the technique without changing their form. Then, I experimented with reversing a throw on them. From their facial expression, they are annoyed, but they say thank you, and when they perform the technique the next time, they are immediately better. So I’ve come to the conclusion that I cannot teach anybody anything, but merely furnish the conditions under which they can learn for themselves. Furthermore, the conditions for learning often involve giving the person a safe opportunity to fail.

Getting Feedback

The other side of this is to create the sort of environment where people can tell me what I’m doing wrong. This is hard in Japan, because people are often afraid of offending someone by presuming to know something. So if I’m unable to apply a technique because my partner is resisting, I say “I see. Thank you.” Or if something doesn’t feel right, I’ll say “this doesn’t feel right,” whereupon my partner will tell me what I’m doing wrong, or provide more resistance so that I can have the chance to learn the appropriate way to move.

Good feedback can come from someone of lower rank. Bad feedback can come from someone of higher rank.

Today, I saw a black belt train a technique called shihonage with a beginner, and the beginner, being loose and having no preconceptions of how to receive the technique, simply twisted out of it instead of break-falling. The black belt tried to “correct” the beginner by showing him how to break-fall. Instead of assuming she knew better because of her rank, what she should have been doing was thinking about how to apply her technique so that her partner couldn’t escape.

黄金神社

台湾は日本統治時代に日本鉱業株式会社が黄金神社が採掘場の近くに大きな神社を建てた。ここにアメリカ人の同僚と一緒に行くことにした。台北市内から1062号バスを一時間ほど東へと乗って、黄金博物園で降りた。石階段を上り、大きい石灯篭の間を通って、振り返って見ると霞んでいる谷間の村と遠くの山々、そして海が見えた。上り続けるとまた石灯篭とコンクリートの鳥居を通って、曲がってもう少し上ったら、最後の鳥居を通って、本殿を支えていた柱の間に渓谷の景色を眺めていた。今はもう屋根も壁もない。参道の横の看板には神社の原型について、こう説明されていた「神社の原型は寝殿、拝殿、手水舎、参道からなり、参道には鳥居三基、幟旗の台座五台、本殿に牛の銅像五体がありました…」

本殿に入り、神座があったところの前に正座した。もう神座がないけど、その代わりに、すばらしい景色が目の前広がっていた。祝詞のテキストを取り出して、一揖(いちゆう)、二拝(にはい)、四拍手(しはくしゅ)して祝詞を詠みはじめた。初めはリズムをつかめなかったが、詠んでいる間に、呼吸や体が調律に入り、私の写真をとっている観光客も気にならなかった。調律に入るのが気持ちよかった。あんまりに自然な気持ちで、まるで私が祝詞をあげているのではなくて、他人が上げているのを聞いているようだった。そう思った途端に、調律から外れた。この祝詞は新宮の熊野塾道場長の庵野先生が毎朝唱えている祝詞。長い天津祝詞のようなもので、私も読むのが遅かったので、十分ほどかかっただろう。その間に調律に入ったり、外れたりして、面白いと思った。合気道の稽古の中で技に入っているか動きがずれているかという感覚に似ている。終わったら、四拍、一拝、一揖して立ち上がった。

祝詞を上げるのは、日本でこれほど大きい神社では恥ずかしいのでやらない。これは私が台湾でしかできなかったこと。こうして、私が住んだことのない父の祖国の台湾である私の過去と私が住んでいる日本である私の今を結びついた。